他の9人はどこに

2025年03月30日


(招詞)  詩篇50:14~23 主の祈り

(賛美) イエスわが主よ 感謝と喜びを 聖歌347 主はあなたを救うために

(説教)「他の9人はどこに」(下道定身牧師)

(聖書) ルカ17:11~19


みことば

  きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきた者はこの他国人のほかにはいないのか。(ルカ17:17~18)

 主イエスがある村に来ると、10人の重い皮膚病の患者たちが遠く離れた所から「イエス様、私たちをあわれんでください」と最初で最後のチャンスに声を張り上げ、必死で叫び求めました。主は「祭司のところに行って、からだを見せなさい」と言われました。当時の律法では、もしいやされたなら祭司が7日間観察し、完全に治っていることを確認したうえでいやしの証明書を発行し、家族、社会に戻れる規則でした。 彼らがまだいやされていないのに、主は彼らに祭司の所に行けと命じられました。彼らは、村から140キロも離れたエルサレムに信仰と従順をもって旅立ちました。そして彼らは、行く途中でいやされました。 主の言葉に従った10人全員が主のいやしを体験しました。しかしそのうち、大声で神をほめたたえ、主の許に来てひれふし感謝したのは、たったひとりのサマリヤ人だけでした。主イエスは、「いやされたのは10人ではなかったのか、他の9人はどこへ行ったのか」と驚かれました。主は、彼らも同じようにいやされ、どこへ行ったのかもすべて知ったうえで語られました。 まっさきに神をほめたたえるために主イエスの所に帰ってきて、感謝と礼拝をささげたサマリヤ人に対して、主は「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのでした」と彼の救いを宣言しました。10人が主のいやしを受けましたが、肉体のいやしは一時的なものです。どんないやしであっても、人はいつか必ず死にます。他の9人はからだのいやしという自己満足で終わりました。しかし、サマリヤ人は主イエスのもとにきて感謝と礼拝をささげ、罪のゆるしと永遠の命の救いを、また、主と共に生きる信仰の祝福が始まりました。 主の恵みに対して、私まりの喜びにとどまり、そこで終わってはいないだろうか。主の許に行き、その感謝をどれほど、せめて十分の一でも伝えているだろうか、主のいやしを受けた10人の1日、それとも他の9人のどちらの存在だろうか。