真に幸いな人とは

2025年02月23日


(招詞)  ヨハネ9:1~3 主の祈り

(賛美) とわに礼拝します 神の愛を求める者よ 求めて 悲しみ尽きざる                       

(説教)「真に幸いな人とは」(下道定身牧師)

(聖書) ルカ 6:12~26


みことば

  あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)

 主イエスは、真に幸いな人は誰か、それは、いま富んでいる人でなく貧しい人、いま満腹している人でなく飢えている人、いま笑っている人ではなく泣いている人、いま人にほめたたえられている人ではなく、憎まれ、ののしられている人である、と教えられました。 主イエスが幸いな人と呼んだ人々を世は最もみじめな人々と呼びます。私たちが求める幸いな人とは真逆の教えのように思われます。なぜ貧しいことが、飢えて苦しいことが、悲しみに涙することが、理解されずに憎まれることが幸いな人だというのでしょうか。 主イエスは、今私たちが生きて生活している、目に見える世界がすべてではなく、私たちの真に求めるべき、真に変えるべき永遠の神の国、すなわち神の完全なご支配の御国があることを教えられました。そして、その神の国に私たちを招き入れでくださるために、主イエスはみずから十字架に架かってくださいました。主イエスが教えてくださった真に幸いな人とはこの一時的な地上の豊かさではなく、主への感謝と喜び、永遠の神の国の希望に生きる人です。 ルカ15章の放蕩息子は目先の幸せを求めて父の元から遠く離れた結果、究極の貧しさ、飢え、涙、絶望を経験し、そのことを通して本心に立ち返り、真の豊かさ、魂の平安と満たし、内なる霊的喜び、父の真の愛という本来の幸いを体験します。貧しいことが幸いなのではなく、その貧しさを通して、初めて本来のあるべき自分を見出したのでした。 永遠の神の国があること、飽き足りるまでに満たされる時が、涙が笑いに変えられる時が、また主の愛の中に抱かれる時が必ず到来します。クリスチャンこそ、主イエスにあって罪が赦され、神の子とさせていただいた永遠の神の国の希望に生かされている、世界で最高の幸せ者です。