沖へこぎいでよ

2025年02月16日


(招詞)イザヤ43:1~4 主の祈り

(賛美) 求めて お言葉ならば キリスト教会の主よ 聖歌597                       

(説教)「沖へこぎいでよ」(下道定身牧師)

(聖書) ルカ5:1~11


みことば

  話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、私たちは夜通し働きましたが何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」(ルカ5:4~5)。

 主の弟子たちとは自己主張せずに「しかし、お言葉ですから」とそのとおりに従う者です。ペテロ、ヨハネ、ヤコブはガリラヤ湖の漁師でした。彼らは経験上、夜間が不漁の時は、昼間の漁はなおさら無理、無駄であると知っていましたが、「しかし主のお言葉ですから」と沖へこぎ出したところ、舟が沈みそうなほどの大漁を経験します。信仰生活には人知を超えた神の力、働きに触れること、今も生ける神に出会う経験が必要です。主は彼らを主の弟子として召され。人間をとる漁師へと変えられました。 
 これまでの経験、世の常識、人の評価と肉なる思いという浅瀬の岸を離れ、思い切って主のお言葉のとおりに沖へこぎ出し、深みに網をおろしてみること、これこそが生ける主を体験する生きた信仰の秘訣です。沖へこぎ出すことは、勇気と犠牲と主への信頼が必要です。岸辺にはない困難やリスクも伴いますが、主のお言葉に従って沖にこぎ出した者だけが体験できる主からの奇跡と霊的祝福が必ず用意されています。 
 私たちの教会は、今年創立71年、新会堂献堂11年を迎えます。この間、多くの信仰の先人たちが主の声を聞いて「しかし、主のお言葉ですから」とそのとおりに信仰の沖にこぎ出してくれた結果として現在があります。今度は私たちの番です。バトンを次に引き継ぐ番です。 
 父なる神の恵みは限りなき海ぞ、とも網を解きて沖へこぎ出してみよや、世の人は岸に立ちて沖をば見るのみ、主の恵みの深さなどあえて知らんとせず、ある者はわずかこぎて遠く乗り出さず、かえる波にのまれたり、舟もろともに乗り出せ、沖を指して、恵みの湖の瀬に流されて、すべてを主に任すまでは、沖へ出でよ、岸を離れ、主の恵みのただ中へ、いざ、こぎ出でよ」(聖歌597)