執着する神

2025年10月19日


(招詞)  詩篇23:1~6 主の祈り

(賛美) さあ手を打ち鳴らし 賛美を主イエスに 主イエスを求めることこそ 聖歌464

(説教)「執着する神」(大坂 太郎 牧師 山手町教会)

(聖書) ルカ15:1~32

 今日のタイトルを見て「ん?」と思った方も多いと思う。というのも執着という言葉はよい意味で用いられることが少ないからだろう。キリスト教信仰における神は偉大にして良いお方。その方に執着という形容は似合わないということである。実際にググってみても上位にでてきたのは「執着とは何か?ー執着を手放す方法を公認心理師が解説」とか「僧侶が説く、生きるのがラクになる執着の手放し方」など、やはり執着をネガティブにとらえている記事であった。しかしながら。今朝読んだ3つのたとえ話を読むと、羊飼い、女、そして二人の息子の父になぞらえている神は実に執着心の強い、平たく言えばねちっこいお方であることがよくわかる。今朝はこの三つのたとえの中から、神の執着心について理解を深めたい。

 1.「羊飼い」の場合

 ご自身のそばにやってきた罪びとたちに排除したイエスに対し、自らの正しさを誇示していたパリサイ人や律法学者は、イエスの行動にクレームをつけた。それに対してイエスは3つのよく似たたとえ話を語るのだが、一番目のたとえの主人公はもちろん羊飼いである。しかし日本人がこのたとえを理解するには少々の背景理解が必要である。それは羊は家畜であるということである。一説によれば人は紀元前6000年以上前から羊を家畜化しているということである。つまり羊にとっては「飼われている」のが標準的な状態であり、迷い出たという状況は即生存の危機であることを意味している。実際、4年前、豪州で数年にわたり迷子の羊が保護されたことがあったそうだが、その毛の量はなんと30kgを越えており、あまりにも伸びた毛は羊の命を危険にさらすこともあるのだそうだ。恐らくはその一匹をかわいそうに思ってだろう、羊飼いは見つかるまで羊を探し続ける。彼は「まっ、99匹いるから一匹くらいはどうでもよい」とは微塵も思わず、見つかるまで探し続けるのである。

 2.「女」の場合

 第2のたとえでは場面は一転室内になり、主人公も女性になる。彼女がなくしたのはギリシャの貨幣、ドラクマ銀貨である。当時1ドラクマはローマにおける1デナリとほぼ等価と言われており、1デナリが労働者1日分の労賃だということは私たちの知るところである。昨年の日本人の労働者の収入の中央値が380万円、そこから週休2日分および有給休暇の日数を引いた数245日で割ると、大体1万5500円くらいになる。なかなかの金額である。タンスの奥に十円玉が転がってしまったのとは訳が違う。そう考えれば女が明かりをつけて家中を掃き、注意深く探すのもむべなるかな。もっとも彼女の執着心が実って銀貨が見つかった際、彼女は近所の人を読んで喜びを分かち合うのだが、それだとお金を使ってしまうのではないかとも思ったりするが、そういう解釈が野暮天であろう。

 3.「父」の場合

 第3のたとえがよく「放蕩息子のたとえ」として知られているが、前述の2つのたとえ話から考えれば「失われた息子たちのたとえ」と理解した方が良いように思われる。父の財産のすべてを金に換え、放蕩三昧ですべて使い果たした末に自らの愚かさに気づき家に帰った弟を雇人としてではなく、子として迎え入れ(22節)、祝宴が始まる。しかし兄はそのことをしもべから聞き大激怒し、家に入ろうとしない。そこに父がやってきて「いろいろなだめてみた(28節・新改訳旧版)」というのだが、ここにも父の執着を見ることができる。もし父が巷間言われるように弟ばかりを可愛がる偏愛の父だとすれば、そもそもこんなことはしないはずだ。ベートーベンの「歓喜の歌」よろしく「そのようにひねくれて心分かちあう魂を持てないような輩はこの輪から泣いて立ち去るがよい」とでも言って扉の戸を閉めればよいのだから、だが父のやっていることは反対だ。父は兄の「あんた」「あんたの息子」といった断絶を仕掛ける言葉に耐えつつ、「子よ(31節・新改訳2017)と語り掛けることをやめないのだから。父は何とかしてこの近くに居ながらもなお失われている子を取り戻そうと執着し続けるのである。

 ルカ15章の結末はハッピイエンドでも、バッドエンドでもなく、オープンエンドだ。おそらくイエス(ルカ)は聴者(または読者)である私たちに「あなたならどうするか」と問いかけているのではないか。聖書の神は私たちをねたむほどに愛し、決して諦めないお方ではあるが、だからと言って首縄つけて強制的に従わせるお方ではない。神が私たちに求めているのはどこまでも愛の関係だからである。弟が苦難の中で「我に返った」ように、兄もまた暗がりに留まろうとせず、素直になって祝宴の扉に手をかけることを父なる神は待っておられる。友よ、あなたはどうか。