(招詞) Ⅱコリント4:16~18 主の祈り
(賛美) 聖なる主の前に この世はみな 主われを愛す その日全世界が
(説教)「喜びの日の到来」(下道 定身 牧師)
(聖書) ゼパニヤ3:9~20
みことば
「シオンの娘よ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び呼ばわれ。エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。主はあなたを訴える者を取り去り、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王なる主は、あなたのうちにいます。」(ゼパニヤ3:14~15)
預言者ゼパニヤは、南ユダがBC587年にバビロンによって滅ぼされる前に、ユダの罪と神のさばきを厳しく糾弾します。ヨシヤ王は、即刻改革に取り組むも、民はすぐに悪の道に坂戻りし、かたくなに神のさばきの道を選択し続けます。その結果はユダの滅亡とバビロン捕囚でした。しかし、聖書は神のさばきで終わってはいません。人の頑固な不信仰にもかかわらず、なお、回復の時、喜びの日の到来を神は供えられます。
ゼパニヤ書の中心テーマは、主の日です。それは、神のさばきの日の到来とその日のすさまじきこと、その日の確実性についてです。もうひとつは、罪の悔い改めと神のあわれみによってもたらされる喜びの日の到来についてです。人生の大逆転の日が到来します。
ゼパニヤ書3章の前半(1~8)は、ユダの神への背き、暴言、高慢と頑なさ、無関心、無知、神を求めず近づこうとしない姿が、また、ユダの役人や裁判官の不義、さらに預言者や祭司たちの堕落と汚れや恥の無感覚、荒れ果てた悲惨な姿に対する神の厳しいさばきの日の到来(3:8)についての厳しい叱責、また警告がなされます。このユダの姿は他人事でしょうか?
すべての人の創造主なる真の神は、遠く離れて罪と滅びの中にある私たちをあきらめることなく、今日まで忍耐をもって愛し、救い出すために、ひとり子イエス・キリストを遣わし、十字架を通しての救いの道を開いてくださいました。私たちのなすべきことは、個々人が信仰をもって、その十字架の受け取ることです。
今日における聖書の最も大切なテーマは、主の再臨とその日の到来です。その日、人によっては世の罪に対する究極のさばきの日の到来であり、同時に人によっては、究極の救いの完成、喜びの日の到来です。最も確実に到来するその日に対するこの私の信仰の備えは?