(招詞) Ⅱテモテ3:14~17 主の祈り
(賛美) さあ主の家に行き 主は良いお方 誰も見たことのないことが 聖歌498
(説教)「み言葉に生きる道のさいわい」(細川 るり 牧師)
(聖書) マタイ5:1~11
みことば
こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。(マタイ5:3~4)
長い信仰生活を経てこられた壮年婦人の兄姉のお姿は、若い世代やこれからの信仰生活に入る人々のよきお手本である。み言葉に真摯に向き合う先輩たちの後ろ姿を見ながら後の世代が育ち、筋金入りの信仰が次代へと受け継がれ、教会の歴史が紡がれていく。
私も諸先輩方の真摯にみ言葉に生きる姿を見ながら、信仰が育まれていった。み言葉に従って生きることは、すべてのキリスト者に求められていること。しかし、時に私たちは、み言葉と実生活とを切り離してしまうのではないだろうか。
私たちが主イエスの教えに従って生きる道は、ここで主が言われた「心の貧しさ」にかかっている。この「貧しさ」とは、空っぽで何ひとつ持たず。それ故に物乞いをする他ない貧しさのことで、「心の貧しさ」とは「霊における貧しさを意味している。
自分の中には、神さまの義を満たす者は何一つないことを認め、ただ神さまが示された善意(イエス・キリスト)にすがり、神さまの恵みを受け取ること、それが「霊における貧しさ」である。
キリストの教えに従って生きようとする時、私たちは大きな壁にぶつかり、み言葉に真剣に向き合う時、自分の内にはキリストが示された愛も赦しも慈しみの心もないことを悟る。そんな貧しさを知り、神さまにより頼み、人を赦し、敵を愛し、迫害する者のために祈られた主のお姿を見上げて、一歩一歩ではあるが、主のご性質へと近づかれていく。
それは、ただ聖霊の働きにより(Ⅱコリ3:18)、そのような人はこの地上に会って、「神さまが王様として治められる王国」の住人として生きる。その歩みは。神さまのご支配の下にあり、主の栄光を表す人生とされる。心の貧しい人のさいわいとはそのような幸いである。