我ここに立つ(み言葉の力)

2025年05月04日


(招詞)  ヨハネ4:13~14 ヨハネ7:37~39 主の祈り

(賛美) 麗しき王なるイエス 主はぶどうの木 鹿のように 主のみ言葉は  

(説教)「我ここに立つ(み言葉の力)」(下道定身牧師)

(聖書) 詩篇119:1~64


みことば

  若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうk。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。」(詩篇119:9)

 1517年10月31日、神聖ローマ帝国ヴィッテンベルグ教会の司祭が当時のローマカトリック教会の間違いを正す「95か条の抗議文」を掲げました。その司祭の名はマル

チン・ルターでした。当時のローマカトリック教会の権力は絶大で。世俗の王(皇帝)よりも教会の教皇の力が上でした。そんな教会の過ちを批判した改革者はことごとく追放され、処刑されていましたが、ルターは教会から破門威嚇(いかく)勅書を受け、ヴオルムス帝国議会にて公民権を剥奪され、抗議文の撤回をもとめられつつも、毅然として「教会も教皇も間違いを犯す。私は聖書み言葉によってでなければ、自説を撤回しない。我ここに立つ。神よ、私を助けたまえ。」と告白し、命がけでみ言葉1517年10月31日、神聖ローマ帝国ヴィッテンベルグ教会の司祭が当時のローマカトリック教会の間違いを正す「95カ条の抗議文」を掲げました。その司祭の名はマルに立ち、宗教改革を推し進めました。旧約聖書のダニエル書には、バビロン捕囚の屈辱の中で、バビロン王の命令に従わず、金の像を拝まなかった若者が記されています。王の命令に背けば火刑に処せられるが、きっと神が助けてくれる、しかし、たとえそうでなくても、神のみ言葉に立ち、従った若者たちがいました。誰よりも神のみ言葉に立ち、生き、その生涯を全うされたのは、主イエスでした。そしてルターもダニエルも主イエスも、不安と恐れと葛藤の中でみ言葉の力に支えられ、前進していったと思われます。み言葉は、全ての人にとって歩むべき道を示す主のおきて、定め、戒め、生きる知恵を与える神の言葉です(詩篇119:1~2)。世の惑わし、罪、汚れ、不信仰、偽りの迷いの道から私たちを守る神の言葉です(詩篇119:9~11)。死から命に、悲しみからの勝利へ、悩みの時の慰めの神の言葉です。今、私が立っているところはどこでしょうか。自分の願いと損得勘定の都合の上、あるいは他人との比較と人の評価の上、または世の中一般の幸せ、安心、損得、価値観の上、それとも神のみ言葉の上でしょうか。