教会は祈りの家

2025年04月06日


(招詞)  ピリピ4:4~7 使徒信条

(賛美) 主の宮 栄光の雲が宮に満ちて 誰かが祈っている 聖歌255

(説教)「教会は祈りの家」(下道定身牧師)

(聖書) ルカ19:28~48


みことば

  「我が家は祈りの家であるべきだ。」(ルカ19:46)
 ルカ19:1~27では有名なザアカイの記事とミナのたとえが記されています。そして19:22以降からは、主イエスが十字架につかれて死なれる最後の1週間、すなわちここから受難週の記事に入ります。
1. エルサレム入城(ルカ19:28~41)その目的は全人類の救いのため、十字架による苦しみを受けるために自ら先頭に立ち、その方法は威風堂々ではなく、ロバの子に乗っての入城、主がお入り用でしたらなら、人々の反応は賛美と妨害、でした。
2. エルサレムのための主の涙(ルカ19:41~44)エルサレムに近づき、都の全景は一望できる所に来た時、主は号泣されました。その涙はご自分に背を向け、十字架につけ、かたくなに不信仰を続ける民のため、その結果まっしぐらに滅びに向かう愛する民のためでした。今日においてもそんなエルサレム、そんな私のために、泣いてくださる主の涙が見えているだろうか。
3.教会は祈りの家(ルカ19:45~48)神殿で贖罪のために捧げる動物(羊、家鳩、山鳩)の販売、両替商が民から利益をむさぼっている彼らを主イエスは追い払って神殿をきよめ、本来の神殿の在り方を示されました。
 イザヤ56:6~7の「主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は、わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈りの家のうちで楽しまれる。彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受け入れられる。わが家は、すべての民の祈りの家と唱えられるからである」のみ言葉を引用して、教会の本来の姿を支援されました。ペンテコステの日に聖霊によって誕生した教会は、「一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた」(使徒2:42)。祈りこそ教会の命、力です。教会こそ祈りの家です。