神を見失った悲劇

2024年09月01日

(招詞) イザヤ53:3~6 使徒信条

(賛美)   み前に行き 御名を掲げて 求めます主よ 疑い憂いに(聖歌538)                             

(説教)「神を見失った悲劇」(下道 定身師)

(聖書) 列王紀下1:1~12


みことば

 「あなたがたがエクロンの神バアルセブブに尋ねようとして行くのは、イスラエルに神がないためか。」(列王下1:3)

メッセージ

北イスラエルの王アハブが死んだ後、その子アハズが王位を継ぎました。「彼は主の目の前に悪を行い、その父と母の道、およびイスラエルに罪を犯させたヤラベアムの道に歩み、バアルに仕えて、それを拝み、主を怒らせた。すべて彼の父がしたとおりであった」(列王22:52~53)。

 私たちは、ここに過去と現代を問わずに、罪がもたらす恐ろしい悲劇を教えられます。それは、罪の力は本人の人生を狂わせて、使徒滅亡を来たらせるだけに止まらず、愛する大切な子どもと子孫の人生に確実に悪影響を及ぼし、さらに数えきれないほどの多くの人々を悪しき罪に巻き込んで苦しめます。また、罪の恐ろしさはすぐに結果が現れないから安心大丈夫なのではないということです。播かれた種は、必ず刈り取ることになると聖書は警告します。

 聖書は人間の罪の本質を教えます。罪を表す聖書の言葉はギリシャ語の「ハマルティア」で「的外れ」という意味です。つまり、罪とは表面に現れた犯罪とか不法行為だけでなく、本来のおるべきところから離れた姿のこと、たとえば、神を神としないで神ではないものを神としている、夫婦愛を他の異性に向ける等々すべての的外れの罪こそが人生を狂わせ傷つける悲劇の元凶なのです。

 一人の人アダムによる的外れな罪がすべての人に死と悲劇をもたらしました。同様に神は、もう一人の人キリストによって、すべての人に罪のゆるしと救いをもたらしてくださいました。しかし、それは自動的に与えられるのではなく、個々人が、それぞれ自らの自由意思を用いて、キリストを受け取る者にもたらされる救いなのです。

 見失った神を見出すための唯一の道はキリストです(ヨハネ14:6、9)。