主が言われたとおりに

2021年04月18日

賛美

喜ばしき声あげて(聖歌258)

御座におられる

信仰こそわが身を

愛する主イエスよ

聖書 出エジプト8:1〜15

説教 「主が言われたとおりに」

下道 定身 牧師



みことば

「ところがファラオは一息つけると思うと、心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった」(出エジプト8:15)


神はエジプトで苦しむ神の民イスラエルの悩みをつぶさに見、彼らの叫びを聞かれ、苦しみから救い出すために、心身ともに衰えの兆しのモーセを召された。しかし彼は、「私はいったい何者でしょうか」、「私は口の人ではありません」、「誰か私以外の他の適当な人を」と言って、せっかくの神の召しからなんとか逃れようとする。そんなモーセに対して「わたしはある」といわれる神ご自身が共に行かれること、かつ、彼とともに立つ協働者を神が備えていることを告げられた。

モーセは神の召しを聞き、葛藤の中で抵抗しつつも、神の不思議なご計画と約束に残りの人生をかけた。そして不安と恐れを抱えつつ、従う決断の一歩が彼の人生そしてイスラエルの歴史を変えた。

モーセは、まず神のみことばを通して彼に対する神の召しと計画と約束の語りかけを聞いた。あなたは、朝ごとに、日ごとにデボーション、聖書通読、礼拝会説教、日常生活の中の出来事などを、神からの個人的な語りかけとして聞いておられるだろうか?

モーセは、神の召しの語りかけと約束を完全に信じきって従ったのではないと思う。迷いながら、内に戦いを覚えつつ、それでも、従順を選択した。ここに神の奇跡が起こった。聞くことと、信じることと、従うことは、私たちの人生にまったく異なった結果をもたらす。

モーセは、勇気を奮い立たせて、神の命じられたとおりに、彼の兄であり協働者として神が立てられたアロンとともに、エジプト王ファラオの前に立って「わが民を去らせよ」と告げる。しかし、スムーズにはいかないで彼が恐れていたことが現実となった。神は信じ、従ったからといって、ものごとすべてがうまくいくのではないことを覚えよう。

今、私にはわからなくても「今にわかる」時が来る(6:1)。「主が言われたように」(7:13、22、8;15)私にとって想定外のできごとも、神にとってはすべて想定内のできごとである。万物の支配者、主権者なる神、「わたしはある」と言われる神が言われたとおりに、である。