イスラエルよ、その汚れから離れよ

2022年03月27日

賛美

どんな時でも私は

主イエスの血潮

イエス、主はわが岩

聖なる者となさんため(聖歌553)

聖書 レビ記15:31

説教 「イスラエルよ、その汚れから離れよ」

下道 定身 牧師



みことば

「このようにしてあなたがたは、イスラエルの人々を汚れから離さなければならない。これは彼らの内にある私の幕屋を彼らが汚し、その汚れんために死ぬことのないためである」。(レビ15:31)

レビ記は、私たちの内面にある霊的な信仰の領域、また日常の実際的な現実の領域において「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ11:45)ことを教えています。

1)私たちが気づいていない内面の罪、2)神の言葉を軽視し自分勝手な信仰、3)食物、触れる物、見たり聞く者によって内側に蓄積され潜む罪と汚れの恐ろしさを教えます。同時にそこからのゆるしときよめの道が大祭司なるキリストにあることを指し示しています。それゆえ私のなすべきはキリストのもとに行くことです。主の名を呼ぶことです。

15章では、男女の性に関する清めが記され、信仰が実際の人間生活の奥深い面においても清められるべきことを教えています。神は人を縛るためではなく、汚れゆえの死から私たちを救い出し清めるために、そして神からの愛と選びと御委託に生きるために規定を定められました。私のなすべきことは神の栄光を表し、多くの人々に神の祝福をもたらす存在として特別に愛され、選ばれ、立てられた者であることを自覚することです。


人には深刻な2つの苦しみがあります。1つは汚れゆえに神が見えなくなる苦しみです。「心の清い人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5:8)と教えられました。今日。あなたは神が見えていますか。もう一つはその汚れから離れられない苦しみです。この2つの苦しみから私たちを解放するために、キリストは十字架についてくださいました。私のなすべきは、ただキリストの十字架を見上げ、ゆるしを信じることです。

それゆえにツァラアトの疑いの初期症状(腫れ、吹出物、発疹)に気づくこと、即刻、祭司のもとに行って診断を受けること、ツァラアトならば隔離され指示に従うことが教えられています。罪とゆるしときよめは、大祭司なるイエスのもとに行くところから始まります。

ロトの妻は滅びから逃げる途中で後ろを振り向き、塩の柱になりました。中途半端は危険です。私のなすべきは、危険な場所から必死で離れること、近づかないこと、そこから逃げることです。