しかし、みこころのままに

2023年04月02日

(招詞) イザヤ53:3~6 / 使徒信条

(賛美)     輝く日を仰ぐとき(聖歌480) 栄えの冠を(聖歌403) 罪と恥に 

     主は命を与えませり(新聖歌102)

(説教) 「しかし、みこころのままに」

(聖書)  マタイ26:36~56

(みことば)

 「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかしわたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください。」(マタイ26:39)
 マタイ26章は、主イエスさまが十字架に架かられる2日前の記事です。主は、弟子たちに2日後にご自身が十字架につけられること、またベタニヤで主の頭にナルドの香油を注いだ女と弟子たちの反応、最後の晩餐を通して十字架の意味についての教え、弟子たちの裏切りの予告、そしてゲッセマネの壮絶な祈りが記されています。
主は悲しみのあまり、死ぬほどの苦しみの中、血の汗(ルカ22:44)を滴らせて祈られました。「わが父よ、もしできることでしたら、どうかこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさってください」と。主は、ご自身の願いを訴えつつも、ご自身の都合や要望、損得ではなく、また、ご自身の感情やこだわりではなく、「わたしの思いのままにではなく、神のみこころのままに」と祈られました。
私たちの祈りはどうでしょうか。神のみこころはどうであっても、しかし私の思いのままにお願いします、聖書のみ言葉は、主のみこころは、聖霊の語りかけはわかります、しかし、やはり私の重いのままに、との自分中心の祈りになっていないでしょうか。
私のもとに救いがもたらされたのは、主が「自分の思いのままでなく、みこころのままに」と祈られ、従ってくださった結果でした。私たちにとっても十字架の杯は苦く、誰もが避けたい道です。しかし、呪いの十字架のみ、多くの人に救いと復活の命をもたらす神のみこころの杯なのです。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう」(マタイ16:25)「わが思いはあなたがたの思いとは異なり、わが道はあなたがたの道とは異なっていると、主は言われる」(イザヤ55:8)

主は悲しみのあまり、死ぬほどの苦しみの中、血の汗(ルカ22:44)を滴らせて祈られました。「わが父よ、もしできることでしたら、どうかこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさってください」と。

主は、ご自身の願いを訴えつつも、ご自身の都合や要望、損得ではなく、また、ご自身の感情やこだわりではなく、「わたしの思いのままにではなく、神のみこころのままに」と祈られました。

私たちの祈りはどうでしょうか。神のみこころはどうであっても、しかし私の思いのままにお願いします、聖書のみ言葉は、主のみこころは、聖霊の語りかけはわかります、しかし、やはり私の重いのままに、との自分中心の祈りになっていないでしょうか。

私のもとに救いがもたらされたのは、主が「自分の思いのままでなく、みこころのままに」と祈られ、従ってくださった結果でした。私たちにとっても十字架の杯は苦く、誰もが避けたい道です。しかし、呪いの十字架のみ、多くの人に救いと復活の命をもたらす神のみこころの杯なのです。

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう」(マタイ16:25)

「わが思いはあなたがたの思いとは異なり、わが道はあなたがたの道とは異なっていると、主は言われる」(イザヤ55:8)