たとえ全世界を手に入れても

2024年03月03日

(招詞)   1ヨハネ1:7~10 使徒信条

(賛美)   感謝しつつ主の門に どんな時でも私は 見えます、輝く光に キリストにはかえられません(聖歌521)                                               

(説教)「たとえ全世界を手に入れても」

(聖書) マルコ8:27~38

みことば

 「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。」(マルコ8:36、37)

 ピリポ・カイザリヤでペテロはイエスに「あなたこそキリストです」と立派な信仰の告白をします。しかし、ペテロはその直後、十字架と復活を語られたイエスをいさめ、「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」と叱責されました(マルコ8:27~38)。イエスがキリストを苦難と死に結びつけられた時、弟子たちはそれを信じることも理解することもできませんでした。どちらもペテロの姿です。今日、私は信仰の思い(神のこと)と肉の思い(人のこと)のどちらの思いに立っているだろうか?

 続いてイエスは弟子の道について教えられます(マルコ8:34)。イエスは、人々に無事と平和を約束されなかったが、栄光を約束されました。十字架を負う覚悟とは、罪人とみなされ、死ぬ覚悟を意味します。それは、自己追及と自己意識の思いと行為に対して「NO」と言い、イエスの声と命令に対して「YES」と言って従順する道です。

 さらに、イエスは命を失うことで命を見出すことについて教えられます(マルコ8:35)。保存しておくことで失われ、使用することで保たれ、増し加えられるものが多くあります。人の才能も人生も、命もタラントも救いも神がわたしたちに与えられたのは、それを用いるためであって、自分のために保存するためではありませんでした。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはたが一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:24)

 人は目先のはかない瞬間のために、永遠を犠牲にすることがあります。「人が全世界をもうけても自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ8:36~38)今日、私の人生における価値をどこに置くのかをみことばの上に立って再確認いたしましょう。