エルサレムの陥落

2024年07月28日

(招詞)  エペソ6:10~16 主の祈り

(賛美)   全地に主だけ 愛する主の 恐れるな 主よわが罪と(聖歌716)                                    

(説教)「エルサレムの陥落」(下道 定身師)

(聖書) エレミヤ39:1~18


みことば

 「ユダの王ゼデキヤの9年10月、バビロンの王ネブカデネザルは、その全軍を率い、エルサレムに来て、これを攻め囲んだが、ゼデキヤの11年4月9日になって町の一角が破れた。(エレミヤ39:1~2)

メッセージ

 BC930年、神の選民イスラエルは、南イスラエルと北ユダに分裂し、BC721年南イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされます。一方、北ユダもBC605年、597年、586年の3回にわたって悲惨なバビロン捕囚を経験します、また、神の言葉を語った預言者エレミヤは、ユダの王ゼデキヤによって拘留されますの先が。しかしその先があります。なぜ全能の神がこのようなことを選民イスラエルの上に、また神のしもべの上に許されるだろうか。「主よ、なぜですか?」と主に問うことは大切です。それは、主の深い御計画の中に、また万物の支配者なる神のゆるしの中で起こっている事がらだからです。苦難を通して神が私に何を語り、何を教え、何を与えようとされておられるのかを、神に聴くチャンスです。イスラエルそして人の歴史は、苦難を通して初めて神に目を、耳を、心を傾けますが、問題が去ると再び神から目をそらし、耳を閉ざし、心が離れることを繰り返してきました。

 北王国ユダの陥落は、突然到来したのではありませんでした。それは、神がその日の到来をくりかえし預言者を通して警告し続けたにもかかわらず、ユダは主の声を無視し、拒み、聞き従わなかった結果でした。歴史から、苦難から私たちが学ぶべき最も重大なことは何でしょうか。私は神の御言葉に対して、果たして本気で真正面から向き合っているでしょうか。

 エルサレムの町の一角が破れ、そこの破れ口から一気に崩壊が全体に拡がりました。町は、全体が破れなくても、一角が破れたらそれで落ちてしまいます。これは、私たちの信仰生活にも共通します。私たちの戦いは、血肉が相手ではなく、悪魔との霊的戦いです。それ故に神の武具を身につけなければなりません(エペソ6:10~18)です。「油断することなく、あなたの心を守れ。命の泉はこれから」(箴言4:23)