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その時ですら
2023年07月16日
(招詞) 哀歌3:19~26 主の祈り
(賛美) なんと素晴らしい ああ驚くべき(聖歌699) 驚くばかりの(聖歌229) ずっと愛されてた
(説教) 「その時ですら」
(聖書) エレミヤ5:10~19
みことば
「そのときですら」と主は言われる。「わたしはお前たちを滅ぼし尽くしはしない」(エレミヤ5:18新共同訳)
かつてソドムとゴモラの町は、10人の義人がいなかったので滅ぼされたが、エルサレムは一人の義人がいたらゆるすと主は言われました。「エルサレムのちまたを行きめぐり、見て、知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い真実を求める者がひとりでもあるか捜してみよ。あればわたしはエルサレムをゆるす(エレミヤ5:1)と。主は今日も「一人の人」を捜しておられます。
日本はクリスチャン人口が少ないと言われるが、本当のキリスト信者が、日本に、札幌に、その地域に、コミュニティに、職場に、家庭に、一人いるなら、と主は言われます。私たちは「世の光、地の塩」として、そこに遣わされています。
しかし、イスラエルは何度神から戒めを与えられても、完全に無感覚となり、度重なる悔い改めの機会に対しても、岩のようにかたくなに拒み続けます(エレミヤ5:2~3)。
「主は生きておられる」と口では言うけれども、また、主の道を知り、神のおきてを知っていながらも、彼らは神の「くびきを折り、なわめを断っていた」(エレミヤ5:4~5)。エルサレムには一人の正しい人をも見つけられませんでした(詩篇53:1~3)。
神は悪を罰しなければ神ではない。どんな小さな罪も厳しくとがめるところに神が神であるゆえんがある。この厳しい神の前に私たちが罰せられないで生きているのは、イエスキリストを罰することによって私たちの罪をゆるしてくださっているからである。神が忍耐し、御子を十字架につけて罪のあがないをしておられるのに、人はまったく気づかない(榎本保郎著「一日一章」798Pより)。
このように悔い改めを拒み、不信を続ける盲目のイスラエルを神は見放さず、遠い国の民を攻め込ませ、火をもって焼き尽くし滅ぼすと告げられます(エレミヤ5:10~17)。それは、さばきを通して彼らの背信と罪のかたくなさが砕かれ、本来のあるべき生き方に気付いて立ち返るためでした。人の苦しみ、失い、行き詰まりを通してでなければ得られない、もっとも重要な宝物があります。
「滅ぼせ。ただ、ことごとく滅ぼしてはならない」(エレミヤ5:10)。さばきの中にある神のあわれみに目を向けよう。しかし「その時でも、その時ですら」(エレミヤ5:18)との最も絶望的、最悪と思えるその時、そのところにある主の御手に目を向けよう。
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