十字架による完了
招詞 イザヤ53:3~6
賛美
イエスの血潮で
主イエスの御そばに(聖歌475)
心に迫る
丘に立てる荒削りの(聖歌402)
聖書 ヨハネ19:17~30
説教 「十字架による完了」
下道 定身 牧師

みことば
「するとイエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終わった」と言われ、首をたれて息をひきとられた。」(ヨハネ10:30)
イエスの十字架の受難は、ご自身のためでも、当時のローマ帝国総督のピラトによるものでも、パリサイ派、律法学者、大祭司、群衆、また弟子の裏切りによるものでもなく、「イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた」(ヨハネ19:17)とあります。なぜ罪なき主イエスが?そのご目的とは一体?
受難週の主の歩みは、日~水曜日に十字架に架かられるためのエルサレム入場、宮きよめ、世の終わりの到来と主の再臨について、十字架刑の予告、葬りへの備え、聖霊の約束と弟子たちのためのとりなしの祈り、ユダの裏切りが、木曜日は弟子の洗足、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、不当な裁判と弟子たちの裏切りが、金曜日は、むち打たれ、ののしられ、はずかしめと悲しみの道、十字架刑、十字架上の苦しみと死、埋葬が記されています。
主は、十字架上の究極の苦しみの中で7つのことばを発せられました。そして息を引き取る直前に「すべてが終わった」と宣言されました。何が終わったのでしょうか?主の十字架によって、全世界のすべての人々(この私たち)の罪のゆるしと救いのために、必要な神の側でのすべての条件が完了したとの宣言でした。そのための十字架の苦しみであったというのです。
あとは、そのゆるしと救いを受け取る人間(私たち)の側の問題です。私のなすべき唯一の条件は、神が主イエスの十字架の苦しみを通して開いてくださった、ゆるしと救いをただ感謝をもって信じ、受け取ることです。自分の罪はあまりにも大きすぎると言ってはなりません。それは謙遜でも信仰でもなく、単に肉の思いであり、聖書はそれを不信仰といいます。主の十字架でゆるされない罪はありません。すでに、主は十字架上で「あなたのすべての罪の始末は完了した」と宣言されました。あなたはこれを信じますか。
「御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめるのである」(1ヨハネ1:7)