行い、それとも信仰

2021年09月05日

賛美

流したまいし

主イエスの十字架の血で

何ゆえ、み神は

聖書 ガラテヤ3:1〜9

説教 「行い、それとも信仰」

                   下道 定身 牧師



みことば

「ああ、物分かりの悪いガラテヤ人よ。あなたがたはそんなに物分かりが悪いのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。」(ガラテヤ3:1、3)


パウロは、これまで何度もガラテヤ教会の信者たちに十字架につかれたイエスキリストを指し示し、信仰による数々の恵みの体験に彼らを導かれました。実際に彼らは信仰によってイエスキリストを見、御霊を受け、大きな経験をしてきました。にもかかわらず・・・です。

パウロはそんな彼らに。「ああ、物分かりの悪いガラテヤ人よ」と嘆き、叱責します。自分ではわかっていると思い込みながら、本当はわかっていないことがわかっていないのが、人の愚かしさです。物分かりの悪いのは彼らだけでしょうか。「ああ、物分かりの悪い私」を見放さず、神は私に必要なメッセージを何度も語り続けてくださっています。

彼らは気づかないうちに、信仰に代えて律法的な行いの心に支配され、初めの信仰生活のあの御霊に代えて、肉の力で仕上げようとしていました。人は、初めの信仰は、御霊によって純粋でしたが、途中で様々な人間的な肉の要素が入り込み、初めの信仰は変質してしまうものです。エペソ教会は、「あなたは、はじめの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)と警告されています。

律法の行いも、人の努力やがんばりも大切です。しかし①人の救いは、また、②聖霊を受けたのは、③神の大きな恵みの経験は、人の肉の行いによったのではありません。ただ十字架につかれたイエスキリストを信じる信仰により、聖霊によって与えられました。ここが原点です。

ペテロは、信仰によって荒れ狂う湖の上を歩くことができましたが、風を見て恐ろしくなりおぼれかけました(マタイ14:30)。自分に何ができるとかできないとか、自分はふさわしいか、どうでないとかが問題なのではなく、主を信じる信仰があるかないか、聖霊に信頼しているかどうか、そこが問題の核心なのです。原点に帰ろう。