みことば
私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(哀歌3:22~23 新改訳)
かつての私は、懸命に自分の力で生きてきたと思っていました。しかし、創造主なる真の神がおられることを知り、信じた時、始めて自分は、神によって生かされて、生きていることを知らされ、気づかされました。
自分は、たまたま、偶然ここに存在しているのではなく、創造主なる神によって、大切な目的と使命をもって存在させられているということを。
人は聖霊によって、これまでのまた今の与えられているもののすべてが、また過ぎてきた時間のすべてが、歩いてきた道すべてが、決して当たり前ではなく、驚くべき主の恵みであると気づかさせられます。
エレミヤ3:1~20には、たび重なる苦難の前にまったく打ちのめされて、悲しみと苦しみのただ中にある人のうめきが記されています。「わが栄えは失せ去り、私が主に望むところのものも失せ去った」と。
しかし彼は、その極限の苦しみの真っただ中で、急転直下もう一つの事実、「しかし私はこのことを心に思い起す。それゆえ。私は望みをいだく。私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のいつくしみは絶えることなく、その哀れみは尽きることがない。」との告白に導かれました。聖霊のお働きです。人は苦難の現実のただ中にあって、初めてもう一つの現実(神の恵み)に目が開かれます。
すでにとうの昔に滅んでいても不思議ではない、否、滅んでいるはずの者がこのように生かされている。よく考えてみたならなんという恵みであろうか。神の哀れみ以外の何物でもありません。このことを思い起させてくださるのも、また聖霊の働きです。
罪と汚れ、不信仰と不従順ゆえに死んでいた私が、今こうして生かされていることは、主イエスキリストの十字架による愛と救いのゆえです。(エペソ2:8)、(詩篇94:17~19)