罪を憎まれ、罪人を愛される神

2022年03月20日

賛美

聖なる御名あがめます

ただ主を(聖歌520)

愛と平和で

聖なる者となさんとして(聖歌553)

聖書 レビ記13:1~17、マルコ1:40~44

説教 「罪を憎まれ、罪人を愛される神」

下道 定身 牧師



みことば

「祭司はこれを見、その皮膚病がその身をことごとくおおっていなければ、その患者を清い者としなければならない」(レビ13::13)

レビ記10章では、アロンと二人の子ナダブとアビフが主がめいじられたのではない異なる火を焚いてさばかれて死んだこと、11章ではきよい食べ物と汚れた食べ物について、また動物による汚れとそのきよめについて、12章では出産した女性を通して人の内面からのきよめについて教えられます。そして13、14章では、ツァラアト(らい病とは異なる悪性伝染性皮膚病)に関する規定を通し、「汚れた罪を憎まれ、罪人を愛される神」が指し示されています。


ツァラアトそのものは罪ではありませんが、これを通して私たちの内に潜む罪を写し出しています。その特徴は①その菌の感染経路がわからないこと、②その菌は皮膚で深く覆われていて自分では気づかないこと、③罪かどうかは神が判断されること、④潜伏期間は不明であるが必ず発症すること、⑤自分に止まらず他の人々に拡がることを教えています。

レビ記には、儀式に関する命令はこと細かに記されていますが、その理由は明確に記されていません。しかし「命じられたとおりにした」のことばが何度も繰り返されています。それは「信仰とは自分としてはわからないこと、納得できないことがあったとしても、神のみことばを信じて命じられたとおりにすること」を教えられます。

それゆえにツァラアトの疑いの初期症状(腫れ、吹出物、発疹)に気づくこと、即刻、祭司のもとに行って診断を受けること、ツァラアトならば隔離され指示に従うことが教えられています。罪とゆるしときよめは、大祭司なるイエスのもとに行くところから始まります。

ツァラアトが頭から足までの全身を覆っておればきよいとされます。(レビ13:12~14)それは自分の徹底した罪深さ、良いものが何もないと知った時、私たちはきよめられる一歩手前にいるのです。自分の力でなんとかできると思っている間は、まだ主のもとにいきません。自分の罪深さの自覚と絶望的な行き詰まりこそが、主のあなたに対する招きの時です。主イエスのもとに行くチャンスです。

ベンハーの映画の中で、地下牢獄にてらい病を患った母と妹がイエスの十字架を通して奇跡的に癒される感動の場面が今も私の目に焼き付いています。今日も、主は恐ろしい罪と汚れからの私たちの救い主、きよめ主、いやし主です。