みことば
彼は主の目にかなうことを行い、すべてのことを父アマジヤが行ったように行った。(列王下15:3)
旧約聖書の歴代誌には南ユダの王たちについて、また、列王記には、南ユダと北イスラエル両国の王たちの事跡が記されています。今週の列王記下15:1~22には、南ユダ王のアザリヤについて、、また北イスラエルの3人の王ゼカリヤ、シャルム、メナヘムについて記されています。今から約2750年も大昔の当時のイスラエルの王に関する聖書の記事が、今日の私たちに語りかけていることとは。
彼らは王位に就いた年齢も、状況も、彼らが行った事跡も、その王位期間もまちまちでした。そして、聖書は彼らの人生をわずか数行でまとめて残しています。
それは自分の目、人の目ではなく、主の目にどうであったかが問われ、記され、残されています。私の人生を数行でまとめると、主の目にかなう生き方であったか、あるいは逆に主の目の前に悪を行ったかに要約されるのです。
たった一度きりの人生で、最後に問われる最も大切なことは何か、それは主の目にどう生きたか、です。何をしたかでも、どれほど大きな成功と結果を残したかでも、人に評価されたかでも、健康で長寿を全うしたかでは断じてありません。
同時に自分が大切に求めていること、私の信仰姿勢と生き方の姿勢は、自分にとどまらずその家族子孫に、善しにつけ、悪しきにつけて大きな影響を及ぼします。親の生きざま、信仰の先輩たちの信仰姿勢を、後に続く者たちは見て同じ道を歩みます。今日、私が最も大切にしていること、私の一番の関心事、私が今懸命に追い求めていることは何であろうか。
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。」(1コリント13:13)