日毎に、安息日に、月の初めに
(招詞) 詩篇143:8~10 / 主の祈り
(賛美) あなたの清い宮として 主よ、私は飢え渇いて 主イエスを喜ぶことは
わが心、造り変え みな、ささげまつり
(説教) 「日毎に、安息日に、月の初めに」
(聖書) 民数記28:1~15
(みことば)
「あなたがたは、香ばしいかおりとしてわたしにささげる火祭、すなわち、わたしの供え物、わたしの食物を定めの時にわたしのことを怠ってはならない」(民数記28:2)
40年間にわたる荒野生活を終えて、いよいよイスラエルは神の約束の地カナンを目前にします。出エジプト以来、ずっと彼らを導いてこられた大祭司アロンが死に、今度は指導者モーセがここで退き、後継者ヨシュアにバトンが引き継がれます。イスラエルは約束の地カナンへの期待と共に、これからの未知の生活への不安も大きかったと想像します。そんな彼らに神は、最も重要かつ怠ってはならない指針を与えられます。28章と29章には、彼らが約束の地で、まず、なすべきは神への礼拝であると教えられています。すなわち、日毎の常燔祭(民28:3~8)、安息日毎の礼拝(民28:9~10)、月の初めの供え物(民28:11~15)、さらに過越祭(民28:16~25)、七週の祭(五旬節)の供え物(民28:26~31)を定められた時に、忠実(確実)にささげるべきと明瞭に記されています。
主への供え物の行為は主への礼拝、自らをささげることを意味します。イスラエルは、またクリスチャンは、礼拝をの大切さはわかってはいますが、実生活の中でこれを実践することは大変です。厳しい現実があります。しかし、実は疲れ果て、余裕がなく、信仰が弱っているゆえにこそ、その時こそ、このことが必要なのです。その厳しい問題の中に主を迎え、その恐れと不安のただ中で主を仰ぐことが和足たちの信仰なのです。
私たちの健全な信仰生活、教会生活、礼拝には、自発的面と他律的面が必要です。自己中心、自分なりの信仰に気をつけたいものです。
「主はそのみ言葉に聞き従うことを喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるでろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」(上サムエル15:22)。
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12:1)。