カイザルのものは、カイザルに、神のものは神に
2023年03月19日
(招詞) 第1ペテロ5:6~10(抜書)/ 主の祈り
(賛美) イエスあなたの名は 主あなたの御名は 主よ感謝します
ああ驚く神の愛ぞ(聖歌699)
(説教) 「カイザルのものは、カイザルに、神のものは神に」
(聖書) マタイ22:15~22
(みことば)
そこでイエスは言われた、「これは、誰の肖像、誰の記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(マタイ22:20,21)
主義、主張の全く異なる、相容れないはずのパリサイ派とヘロデ党が主を陥れる目的で手を組み、「カイザルに税金を納めてよいかどうか」と言えば、神格化されていたローマ皇帝を認め、神を冒涜することとなります。一方、「納税しなくてもよい」と言えば、ローマ帝国への反逆者として訴える。といった主をおとしめるための質問でした。
主イエスの答えは「納税の貨幣には、誰の肖像と名前が刻まれているか」、つまり「これはいったい誰のものか」と問われました。そもそも、私たち自身はいったい誰のものでしょうか。自分のものであるかのようにふるまい、主から与えられ、お預かりしているものであるものであることを忘れてはいないでしょうか。主は「それでは、カイザルノモノハカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われます。
クリスチャンは二つの国籍を持つ者です。天国の国籍と地上の国籍です。永遠の天国をめざすクリスチャンにとって、地上の生活は寄留者的な意味を持ちますが、この地上での果たすべき義務は、他の誰よりも誠実に忠実に果たす良き市民であるべきです。「カイザルのものはカイザルに」、と同時に「神のものは神に」返す義務があります。地上のことに心奪われ、神のものを神に返さずに、また、神のものを自分のもののように勝手に使い込んでいるものはないでしょうか。
クリスチャンには、カイザルのもの、すなわち、日常生活の中での現実的な分野での、また、神のもの、すなわち、目に見えない霊的かつ信仰的な分野の両面においての、良き管理人としての果たすべき義務があります。「するべきことをした僕にすぎません」(ルカ17:10)との謙虚さをもって。