みことば
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして彼らは、使徒たちの教えを固く守り、交わりをし、パンを裂き、交わりをしていた。(使徒2:41~42)
ペンテコステの日、3000人ほどの人々が聖霊によって自分の罪を示され、主イエスの十字架による救いを信じてバプテスマ(洗礼)を受け、彼らは主の弟子に加えられました。単に主の弟子たちの仲間に加えられたのではなく、主の弟子のひとりとして加えられたのです。そのことは、洗礼を受けて罪許され、神の子として新生したすべてのクリスチャンは、主の弟子として召された者であることを教えます。
誰の弟子であるかは非常に大切であり、重いことです。クリスチャンとは、キリストのような人との意味です。なんと恐れ多い名称でしょうか。こんな欠けだらけの者が主イエスの弟子たちとして召され、主の弟子のひとりに加えられたとは、なんと光栄なことでしょうか。
せっかく主の弟子として召された者が、何もせずに自動的に弟子となるのではありません。それは一朝一夕ではなく、多くの時間とさまざまな経験、とくに試練を通して、召してくださった主ご自身が、私たちを試練し、育み、主の弟子として形造ってくださるのです。驚くべき愛とゆるし、忍耐と寛容と祈りを通して。とくに、主は最高の陶器師です。
「われわれは粘土であって、あなたは陶器師です」(イザヤ64:8)。そして、私たちは神の作品であると聖書は教えます(エペソ2:10)。
多くの人々と愛とゆるし、忍耐と寛容と祈りが主の弟子を育みます。
主の弟子となるための私のなすべきことは、いつでも主のそば、近くにいること、何があっても主から離れないことです。そして、主が考えること、語ること、行動することにしっかり目を向けることです。主の弟子とは事あるごとに、こんな時に主ならどのように考え、見られ、行動されるだろうか。主が喜ばれることは、主が悲しまれることはと、つねに聖書と聖霊を通して主に目を向け、主に聞き、主がなされたように、私たちも主に真似ることです。