ただ恵みによって
(招詞) 第1テモテ2:1~16 / 主の祈り
(賛美) 高きほまれと わがたましい 主よ感謝します
罪に満てる世界(聖歌593)
(説教) 「ただ恵みによって」
(聖書) マタイ20:1~16
(みことば)
「そこで5時ごろに雇われた人々が来て、それぞれ1デナリずつもらった。ところが、最初の人々が来て、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも1デナリずつもらっただけであった」(マタイ20:9~10)
主は、ぶどう園に雇われた労働者のたとえを通して、天国についてお話されました。しかし何か割り切れない矛盾を感じるたとえです。ユダヤの1日は、朝6時から始まり、午後6時までで1日が終わるというものでした。ぶどう園の主人は夜明けの6時に、また午前9時、正午12時、午後3時、夕方5時にそれぞれ自ら出かけて、失業している労働者を雇い、賃金を払いました。ところが、最後の夕方5時から働いた労働者も、朝6時からの者も全員同額の1デナリであったというのです。
最初から働いた人たちのつぶやきは、当然のことに思います。もしも、朝6時の人が最初に約束通りの1デナリの賃金を受け取ったならば、感謝して帰ったことでしょう。しかし、彼らは1時間しか働かない人が1デナリもらったのを知ってしまいました。そこで、自分たちはもっと多くもらえるだろうと期待を抱くこととなり、不平を抱くようになりました。
主人は、最初からずっとご自分のために働いたこの人々に、大切な何かを伝えるために、わざとこのようにしたのでした。「自分はこんなにも働いてきた」と思っている弟子たちに、当たり前ではない神の恵みを、また天国とは、救いとは何か、誰が、どのようにしてを教えるために、そして主人(神)の心をわかってほしい、と語りかけているのです。
私たちは、自分が最後に来たものであることを忘れやすい者です。自分が最もふさわしくない者、小さき者、弱い者であることを知る者であることを知る者こそが、主の恵みに与る者です。天国は私の働きの報酬ではありません。朝一番に愛の主人に出会い、仕事が与えられ、生活の必要をいただく者は幸せです。9時、12時、午後3時、夕方5時の人々は、その時になるまで幸せではありませんでした。主人(神)の心は、朝6時の人も、夕方5時の人も、ともに恵みとあわれみによって救われることです。(2テモテ2:4)